Q.AかBを、絶対に!選んでください。
A ビルの10階から飛び降りたら、10億もらえる。
ただし命の保障はない。
B そしてビルの10階から飛び降りない場合は、10億の借金を背負うことになる。
……
…
こういうのはおそらく、誰でもおなじだと思いますが、どちらも選びたくないものですよね。
究極の選択というヤツでしょうか?
では、前回の続きをはじめましょう。
嫌いな相手とは、たいていの場合において相手が主役のようで、そこから思考がスタートしてしまいます。
アイツの近くへ行きたくない。
→ けど用事があるから行かなければならない
彼の指示は嫌だ。
→ だけどやらないと自分の立場や信用が……
課長のためになるなんてイヤだ!
→ ……とはいえ仕事だし、辞める訳にもいかないからなぁ
こんな感じですね。
「いまこのとき、相手が嫌いだ」ということが、とにかく大きくクローズアップされてしまっています。
「相手が嫌だけど、関わらない訳にもいかない」という、どちらも選びたくないような葛藤状態です。
こうした状態のままで選択することは、どちらも感情的に嫌な選択ですから、決まらないし決めてもスッキリしません。
「Aだ、でも……、じゃあB、そうするとうーん、やっぱりA?できればBのような……」
こんなふうにズルズルと後に延ばして、ずっと引っ張るような状態って、居心地が悪く気になってしょうがないし、思い出すたび憂鬱で嫌ですよね。
こうした問いに、AかBかで決めることは難しいです。
だって嫌なことから、嫌だけどどちらが嫌ではないか?という選択ですからね。
そこには良い未来、喜び、楽しさ……という「あかるい何か」は存在しないように思えます。
そんなことを積極的に選ぶことができるものでしょうか?
だからこそ、変えたいのです。
相手から考えるのではなく、“自分を中心に考える”というように変えたいのです。
嫌なこと同士を比べても、答えにくいということですから、まったく別の考え方を持ってくるよりありません。
そうしてまた、嫌な相手が関わっていることなのに、あたかも嫌な相手を中心に考えるということは、どこか馬鹿にされたようで、不愉快なことではないでしょうか?
この2つを同時に解決するために、「自分の人生は自分が主役であり、それを取り戻そう!」ということなのです。
どちらが嫌ではないか?という選択は、冒頭で挙げたような究極の選択とおなじです。
ここに発想の転換を持ってきて、「将来の自分のためにはどうなったらいいのか?」「自分の未来、将来のために何がベストか?」としてみるのです。
あなたの人生とは、嫌な相手をやり過ごすための人生ではありません。
あくまでも自分のために、自分とまわりの仲間のために、より良く過ごしたいと思いませんか?
だとすればやはり、自分を主役にして考えてみたいのです。